僕はレールがあるという世界から降りてみようと思った


writer: 三浦 祥敬

なぜ巡礼に?

僕は今、スペインのサンチャゴ・デ・コンポステラに向かう巡礼路の真っ只中にいる。日本でいうと熊野古道や四国の八十八ヶ所巡りをはじめとした巡礼路があるが、それのスペイン版だ。

僕は仏教のお寺に生まれた。現在27歳で、関東でフリーランスとして働いている。実家で「お寺に帰って来るのはいつだ?」と言われたり、面白いと思う仏教関係のプロジェクトに関東で誘われたり、彼女とどういう風に生きていくかを考えたりするうちに、なんだかこれまで自動的に考えてきた道のりを続けることができなくなってしまった。

別に仕事が完全にストップしたり絶望を感じるほどの状況ではないのだけど、ゆったりと時間を取って、これまで当たり前にしてきた考えたちを放ってみたいと思った。

「サンチャゴ・デ・コンポステラの巡礼に行かない?」と彼女に言われた時、行くことにした。そして、今、スペインにいる。

毎日の生活はシンプルだ。朝早く起きて、20km以上歩く。昼過ぎにはアルベルゲという巡礼者たちのための宿にチェックインし、思い思いの方法で1日を過ごす。巡礼1日目にはフランスとスペインの国境付近に広がるピレネー山脈を越えた。パソコンに慣れた身体は少しだけ軋んだが、悪くない感覚だ。

フリーランスで生き始めてから、時間の融通はずいぶんと効くようになった。自分が休みたい時に休むし、働きたい時に働く。自分がしたいと思うことを仕事にしていけるように勤めている。独立してからの1年というもの、楽しみながらもかろうじて生きてきた。

僕はレールを降りた。

フリーランスになった時にそういう風に思ったのだが、なんだか違和感がずっとあった。
レールを降りた先には無数のレールが広がっていたのだ。

スペインの巡礼の路に行くというのは「他の人と違う選択をしたい」という欲望を満たそうとしてきた自分にとっては自然な選択だった。しかし、その欲望を今後も続けるのかどうかということを問いかけられているに違いない。

レールから降りてもレールが広がっている

僕はパッケージ化された旅にはあまり面白さを感じない。

朝起きたら、この観光地にいきましょう。
そして次に15分の休憩時間がありますので、お土産を買う時間です。
集合して、バスに乗り、次の観光地に向かいます。
そこではランチを食べます。
夜は古くから伝わるレストランでご飯を食べ・・・

とても整理されていて、危険が少ない道だ。素敵な体験をすることができる。

しかし、予期せぬ何かが入り込んでくる可能性を排除されすぎていると、その道が危険ではなくなる分、そこで感じる感動もコントロールされたようなものになるのではないだろうか?

ところで、人生を語る時に「レール」というメタファーが使われる。レールを降りて、自分なりの道を歩き始めることが一つの美徳として語られる。

自分はこの数年ずっと「レールを降りよう」としてきた。そして、ユニークに生きたいと願い、他の人が取らない選択をすることによって自分自身をレールから降ろそうとしてきたのだ。しかし、その思いと裏腹に、しっくりくるレールの降り方をすることができていないことに気づいた。

僕はどこか他人の価値基準のものさしを自分自身に刷り込んでいて、それを使ってフリーランスの世界とサラリーマンの世界を比べていたのだ。

僕らは最初から、パッケージ化された旅としての人生ではなくて、それぞれ、レールなき人生の巡礼の旅を生きている。

「こうあるべき」というイズムがはびこったレールの世界はある。しかし、本来、どう生きるべきかという制約なんてない中で生まれてきたはずなのにいつの間にかレールの世界の中でレールを降りるかレールを歩くかを考えるようになってしまうのかもしれない。

レールの世界から自由になるのが巡礼の道だ。評価基準という尺度から逸脱しながら歩いていく。巡礼の道に乗っていながらもレールに乗ったり、新しいレールを作ったり、レールを降りたりするのは一向に構わない。時々世の中のレールに乗って価値を出して評価やお金を集めるという生き方はできる。しかし、そもそもレールなき世界を持つことができるという可能性を感じ始めたのだ。

レールを降りる時、「ついにレールから降りられた!!」と思うかもしれないが、レールという発想自体を強く意識してしまっていて、それを他人と自分が作り出す価値基準のものさし抜きに語ることができない。つくりだされるのは新しいレールに過ぎない。

あなたは今、どういう思いで生きているだろうか。

不安?
焦り?
他の人と自分を比べてしまう苦しさ?
思い通りにいかない歯がゆさ?
楽しさ?
ワクワクした感覚?
認められたい?

僕はレールが大量に張り巡らされている世界だけではなく、レールなき世界も歩くことにした。

今回の僕のスペインの巡礼の旅は、世間でいうレールの世界の話だ。サンチャゴ・デ・コンポステラの巡礼という1つの世間の中で価値付けされたレールの上に乗っていたのだった。スペインに向かう前には、この巡礼に行くことはレールなき世界を歩く入り口になると思っていたのに、蓋を開けてみれば自分の頭の中で価値基準のものさしから離れることができず、結局はレールから離れることができていなかったのだ。

レールの世界にいることは悪くない。ただ、今回の巡礼で見えてきたのはレールなき世界をも同時に歩くことができるということだ。

スペインの巡礼路に身を置いていると、最後まで歩き切ることが何よりの成功のように思えた。しかし、なんだか腑に落ちなかった。自分がしたかったことはこんなことなのか?となんども自分に問いかけた。

そして、「世の中の価値基準や自分が作り出してしまうレールという物語から外れたい」と思っていたんだなと思った。日本にいたときからうすうすと感じていたけれど、それが今回のレールの巡礼の旅でそれがはっきりとした。

実はレールの世界の今回の巡礼の旅は最後まで歩き切らず途中で切り上げることになった。

スペインから帰るのには多々の理由があるのだけど、僕は世間的に名の通ったサンチャゴ・デ・コンポステラの巡礼の旅を途中で終えて日本に帰り、日本でレールなき巡礼路を再スタートしようと思う。(もちろんレールの世界も歩くが。)

そのレールなき巡礼の道は何が価値という縛りから自由になった自分の体感でしか歩けない。

他の人と関わる中でレールありきの世界に身を置くことは避けられない。僕もレールの世界の住人であることには間違いない。

ただ同時にレールや価値基準のものさしに絡めとられることのない、レールなき世界も大切にしていこうと思う。

レールの世界を降りて自分の可能性を本当に開く巡礼の旅へ

こう生きるべきという呪縛から離れることは怖いかもしれない。

ただ、それぞれの人たちが異なる思いを持って行う人生の巡礼は、怖かろうが怖くなかろうが、すべての人に開かれていて、ただ自分から湧き上がってくるものを大切にすることでなし得るものなのだ。

他の人に信じ込まされてきた正しいもの(ここでは聖地のようなもの)をいったん脇に置いてみよう。そして自分が持っている「こうあらねば」という思いも大切にしつつ、それを眺めてみる。

レールの世界で自分が作り出した聖地(自らが信じる目標・目的)にたどり着いた時、何かしっくりこないかもしれない。その時はその時だ。その聖地は他の人からすると全く意味のないものかもしれないが、それは自分のレールの上では意味のあるものだから。
同時にレールなき世界では自らが信じていようがいまいが、レールすらないのだから、それでいいのだ。価値基準から解放されて「在る」ということだけが成り立つ。

ただ、もちろんレールなき巡礼路を歩くだけで生きていくのはそもそも難しい話だ。世の中で新しいレールを作って生きること自体が難しいことだとされているし、ましてやレールなき状態は社会生活を行うには適さない。

僕だってお金に依存して生きているし、他の人が作り出した食べ物に依存して生きている。レールに乗って活動する場面だらけだ。

レールの世界では、社会の人に理解可能な目標・目的の中だけで生きるのではなく、自分が真に大切にしたいと思えることを大切にしながらレールに依存していきるのではなく、自由な(みずからによる)選択をしていく人生の歩み方もとても重要だと思っている。

しかし、レールありきの世界だけで生きなくてもいい。

***

人生には多くのドラマがある。
それは人から与えられたものさし上に広がる旅の中だけにあるのではなくて
自分自身で作っていくレールの上に広がっている。

さらにはレールなき世界から見てみると、価値基準のものさしに埋もれてしまって、まだ見つけられていない多くのドラマが無限に転がっているのだ。

レールなき世界では特に切実さが頼りになるのではないかと思う。それは価値があると頭で思おうが思うまいが、切実なのだから身体はそれに従っていくだろう。

もちろん家族や組織、守るものの存在が出てくると、どうしてもレールの世界で生きざるを得なくなっていく。でも僕らは生まれた時、レールなき巡礼の世界にいたはずだ。それを思い出して、切実な何かを扱っていこう。

***

今回の巡礼路では多くの人に出会った。

国籍も違えば話す言語も違う。
来た理由も違えば、何から何まで違う。
しかし、共通の言葉を掛け合っていたのは印象的だった。

巡礼者たちが掛け合う「Buen Camino! (よい旅を!)」という言葉。

その言葉は、レールの世界ではない巡礼の世界を歩く相手を祝福するかのように響き渡る。今日も巡礼路の至るところで飛び交っていることだろう。

ここまで読んでくれた読者の方にも、ぜひレールなき巡礼路を歩んでいってほしいと願う。
Buen Camino!

Photo credit(First Photo): Nacho Eguren on Visualhunt / CC BY-NC-SA

writer:

三浦祥敬 Yoshitaka Miura

ラーニング・プロデューサー。
1991年佐賀の禅宗・曹洞宗のお寺に生まれる。不登校・発達障害などの社会的にネガティブだとみなされるバックグラウンドを持つが、それらをプラスに転化していくことを楽しんでいる。現在、人生の転機を乗り越える思想・技術を「Life Transition」という切り口から探求中。TRANSITION PROJECT主宰。
三浦祥敬 note